彼がいなければ、観光都市・松山は存在しなかった!?道後温泉や松山城の基礎を築き、「タルト」を愛した藩主松平定行

年間約580万人の観光客が訪れる愛媛県の松山市。この人気観光地の中でも、外せないマストスポットが、道後温泉と松山城です。

この松山観光の2本柱は、江戸時代初期の松山藩主、松平定行(1587〜1668)がいなかったら、今のように多くの観光客を集めることはなく、松山もここまで繁栄しなかったとされています。

さらに、愛媛のお土産として定番の「タルト」。このタルトを生み出したのも、松平定行だったとされています。今回は、観光都市「松山」を作り上げた松平定行に迫っていきます。

出典:いよ観ネット
松平定行の功績1
道後温泉改装。庶民が気軽に楽しめるようになったのは、定行のおかげ!?

徳川親藩のなかでも名門とされる、御家門・久松松平家の定行が、四国の外様大名への牽制と警戒のために松山に封ぜられたのは、寛永12年(1635年)のことです。

定行自身には、藩を少しでも良くしたいという思いもあり、入国後間もなく、家臣と使用人を伴い、馬で城下町を巡見しましたが、その際の様子を「松山の町は、家中屋敷から庶民の住まいまで全体的に質素で、道行く人々の衣服も白や茶色の木綿が多く、藍染の袴すらめったに目にしなかった」と言い表したとされています。

その翌年、定行は道後温泉の大改築に着手します。「松山藩繁栄の基礎は道後温泉にあり」と、浴槽を士族・僧侶用、婦人用、庶民男子用に分け、この他に15銭銭湯、養生湯、その下流に馬用の湯と、広く、庶民に道後温泉を開放したと記録されています。

なお、馬湯と牛湯は、玉の石や松山藩主が道後を利用する際の別邸にもあったそうです。家畜がこのようなかたちで湯を使える温泉は珍しく、道後は使用場所の区別こそあれ、文字通り「誰でも」湯を利用することができたのです。今、私たちが道後で気軽にお湯を楽しめるのは、この時の大改革が大きなきっかけだったのです。

出典:道後温泉事務所

また、道後温泉は江戸期に湯治町としても発達。四国遍路も定着し、近隣の石手寺を訪れたお遍路さんが温泉に立ち寄ることも多く、お遍路さんの利用に限っては、3日間無料で泊まれるという決まりもあったそうです。

松平定行の功績2
松山城改築自慢の五層天守を、まさかの三層に縮小。そのこころは?
出典:松山観光ボランティアガイドの会

定行は1639年、松山城の大改築を行いました。普通ならば改築と言えば、増築や設備の充実化ですが、定行はなんと、五層の天守を三層に減らしたのです。名門出身の藩主が暮らす松山城。増築こそあれ、なぜ縮小化したのでしょう?

出典:松山観光ボランティアガイドの会

これには諸説あり、ひとつは幕府に対する配慮。慶長14年(1609年)前後、徳川家康により定められた天守の高さ制限により、五重以上の天守が許されるのは国持有力大名に限られました。名門一族とはいえ、15万石の藩には過ぎたる五重の天守。伯父家康への想いから、天守を減らしたのではないかとの説です。

他に​は、ちょうど天守が建つ場所の地盤が弱かったため、小振りにしたとの説も​あります​。いずれもはっきりした理由は解っていませんが、もしも地盤が弱いのが本当の話で、5重の天守のままだとしたらお城は崩れていたかもしれないと思うと、現在の美しい松山城があるのは定行のおかげと言えるでしょう。

また、定行が入国した頃の松山城は禿山で、まるで赤土の上に城が建っているようだったそうです。そこで、定行は麦や粟を撒いて鳥を集めました。狙いは鳥の糞に含まれる木の実で、これを元手に樹木を育てようとしたそうです。今の美しい緑が残る松山城は定行から始まっているのです

松平定行の功績3
銘菓タルト定行がいなければ愛媛の「タルト」は、ただのタルトだった!?
出典:いよ観ネット

愛媛でタルトといえば、カステラに餡を塗り、ロール状に巻いて切り分けたもの。いわゆる通常のタルトではありません。この餡使いと、可愛い「の」の字スタイルを考案したのが、定行と言われています。

タルト誕生のきっかけは、定行が幕府の命を受け長崎に出向いた際に食したポルトガルのお菓子とされています。「タルトレート」または「タルタ」や「トルタ」などと呼ばれていたこのお菓子は、カステラの中にジャムが入った、現在のロールケーキに近いものでした。

あまりの美味しさに感動した定行は、レシピを松山に持ち帰りました。ジャムを餡にするなど、アレンジは施されて生まれた定行流のタルトレートは、その後久松松平家の家伝とされ、一般に普及したのは明治以降とされており、松山の菓子製造業者に技術が引き継がれ、現在の愛媛の郷土銘菓へと広がっていったとされています。

現在タルトは、抹茶味やチョコレート味をはじめ、桜風味や栗入りなど、驚くほどに進化を遂げています。ぜひ定行にも食べてもらいたいものです。

定行の「何でもやってみよう」の精神は、生涯に渡り発揮されました。殖産興業にも積極的で、500羽以上のウズラを近隣の村に放ったり、広島から取り寄せた70俵の牡蠣を海に撒いてみたりするなど、将来を見据えて今出来る事をいろいろと試みていました。

現在、久万高原の特産品となっている日本茶も、定行が山岳地であることに目を付け、宇治茶で茶栽培をしてみたのが始まりです。定行は、晩年には別邸を構えて隠居し、俳諧や茶道を楽しみ、82歳で生涯を終えるまで、悠々自適に過ごしたそうです。

生涯をかけて藩想いだった藩主。自らが整えた松山の基礎が、現在素晴らしいかたちで花開き、世界中から評価を受けていることを知ったなら、喜んでくれるでしょうか。

 

松山観光ボランティアガイドの会
松山コンベンション協会 観光物産振興部
TEL:089-935-7511
http://www.mcvb.jp/